ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

産業遺産シンポジウム「別子の山から四阪の島へ」記録

現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画部 > 別子銅山文化遺産課 > 産業遺産シンポジウム「別子の山から四阪の島へ」記録

本文

ページID:0005409 更新日:2008年1月31日更新 印刷用ページを表示する
<外部リンク>

◎パネルディスカッション(14時43分)


(司会者)
 ただいまから、「パネルディスカッション」を始めます。
 開始にあたりまして、本日のコーディネーター及びパネリストのご紹介をさせていただきます。
 コーディネーターをお務めいただく水野豊先生についてご紹介致します。
 水野先生は、昭和48年に文部省入省。在中国大使館書記官、佐賀県教育委員会教育次長、その後、文化庁で記念物課長、伝統文化課長、文化部長を歴任され、平成14年4月から新居浜工業高等専門学校長にご就任されております。

 続きましてパネリストの後藤治先生についてご紹介致します。
 後藤先生は、昭和63年に文化庁文化財保護部建造物課文部技官として入庁。平成7年からは、建造物課文化財調査官として「登録有形文化財制度」の成立、普及に努められ、平成11年からは工学院大学に赴任され、平成16年から長野県文化財保護審議会会長を務められるなどご活躍中でございます。
 また、旧広瀬邸の重要文化財指定の際にもご尽力をいただいております。

 佐々木幹郎先生については、先ほどご講演のときにご紹介致しましたのでここでは、省略させていただきます。

 続きまして、末岡照啓先生についてご紹介致します。
 末岡先生は、昭和53年から住友史料館に勤務。現在主席研究員を務められております。 『住友別子鉱山史』『住友林業社史』を著すなど、別子銅山研究の第一人者として知られ、昨年は別子銅山の近代化に大きな影響を与えた外国人技師ルイ・ラロックの『別子鉱山目論見書』の初の全訳・解説をなされ、大きな反響を呼びました。平成9年4月からは広瀬歴史記念館名誉館長を兼任され、旧広瀬邸の重要文化財指定を成し遂げられるなど、新居浜市民にとって大変なじみの深い方でございます。

 最後に夏井いつき先生についてご紹介致します。夏井先生は、昭和55年松山市の中学校教諭として赴任、昭和63年に教員生活にピリオドを打ち、平成6年には新人の登竜門の一つ、第八回「俳壇賞」、平成12年には中新田俳句大賞、平成17年にはNHK四国ふれあい文化賞など数々の受賞歴があり、俳句の授業「句会ライブ」の開催、今や全国的な大会となった「俳句甲子園」のルール制定から運営まで深く関わられ、また、ラジオ・テレビのパーソナリティーとして大活躍されております。昨年開催された、「コンサートと朗読の夕べ」において、写真と俳句でつづった別子銅山「森になった街」の朗読をお聞きになった会場の皆さんも多いかと思います。
 それでは、コーディネーターの水野先生お願い致します。

○パネルディスカッション開始

(水野)
 皆さんこんにちは。
 今日のシンポジウムに沢山の方がおいでいただきまして本当にありがとうございました。 既に、佐々木さんの方から、別子の魅力ということで大変すばらしい講演をいただいておりまして、西中学校の生徒のみなさん、また南高等学校の情報科学部の生徒のみなさんから、別子銅山についての大変内容の濃い発表を、みなさんといっしょにお聞きしたところでございますので、これからの与えられた時間に、多彩なパネリストのみなさんをお招きしていますので、是非いろいろなお話を伺いまして、いいひと時を楽しみたいと思っています。

 パネルディスカッションでは、二つのことを話していきたいと思っています。
 ひとつは、この別子銅山の魅力というものについて大いに語ってもらいたいと思っています。

 もうひとつは、既に市でも産業遺産ということで、「近代産業遺産ロマンの息づくまちづくり」という計画を推し進めているところですが、そういうものをどのような形で進めていったらいいのだろうかということを話し合っていけたらと考えています。
 
 ちょうど今年は、四阪島製錬所が移転して本格操業から100年目にあたります。
 今から100年前の1905年は、日露戦争が終った年でもありまして、近代にとっても大きな転換期だったわけであります。そのことがシンポジウム開催のきっかけになったわけでありますが、近代の産業というものと環境というものは、今もなお大きな課題として我々の前に横たわっているものでありますが、勇気と知恵のある人間のさまざまな生き様が、そういうものを乗り越えていったということがあります。
 別子銅山には、そういうものを感じさせるものが、今なおいろいろな所にあります。そういうところから我々の未来のエネルギーを汲み取っていかなければならないと考えます。

 また、近代の産業遺産に限らず、近代の文化遺産は、どういいましょうか、ある面では非常に親しまれているものもありますが、多くの場合はその存在が忘れ去られていようかと思われます。

 歴史の流れの中で残していく、また常日頃の開発の中で消え去っていくこともあるわけですが、近年、そういうものを地域の宝として見直していこう、そういうものを地域の発展のアイデンティティーとして使っていこうという動きが非常に盛んになってきています。

 そういう動きに対して新居浜市は最も先を行くようなまちづくりを市民、行政、またいろいろな方とごいっしょに進めて行くということが、大きな課題だと思っています。それでは、パネルディスカッションをはじめさせていただきます。

 最初に末岡先生から発言をお願いしたいと思います。さきほどご紹介がありましたように、昨年に別子銅山近代化のマスタープランともいえるルイ・ラロックの別子鉱山の目論見書の全訳、解説を世に出されておりましたので、ちょっと斜め読みをさせていただきました。

 その中でも亜硫酸ガスの問題については、かなり考えていたのではないかと感じました。明治8年にそれが出されて、広瀬宰平によって具体的に展開されていくわけですが、その後、四阪島に移ってもなお中和工場ができるまで長い年月が、長い闘いがあったわけですが、そのあたりも含めまして末岡先生から発言をお願いいたします。

(末岡)
 ただいまご紹介いただきました末岡でございます。
 まず四阪島の100年という意味の前に別子銅山の意味ということから入っていった方が、四阪島の方へ入っていきやすいと思いますので、山の意味から考えてみたいと思います。
 
 我々、よく社会科の教科書で鎖国というのを教わります。
 江戸時代は国を閉ざしていました。
 ところが実際は、松前を通じての蝦夷との交易、対馬を通じての朝鮮との交易、琉球を通じての中国との交易、そして我々が知っている長崎を通じてのオランダ、中国との交易という四つの窓口を江戸時代には持っていました。そこからいろいろな貿易品や情報が入ってきていました。
 中でも最も大きかったのは、みなさんが教科書で習っている長崎貿易です。
 オランダ、中国が日本にやって来たわけです。

 何を求めてき来ていたか、みなさんご存知でしょうか。
 長崎へオランダ、中国人がわざわざ来ていたのは、何が欲しかったのでしょうか。
 それは、実は銅が欲しかったのです。と申しますのは、まず中国は、昔は銅銭を沢山出していて鋳入銭をしていました。17世紀以降は銅が出なくなっていました。それで日本から輸出される銅によって銅銭を造っていました。東アジアの銅貨、開元通宝とか寛永通宝とかいろいろベトナム、中国、朝鮮の貨幣経済の銅貨は、日本の銅、その銅をつくったのが別子の銅ですから、別子の銅が東アジアの経済を支えていたことになります。オランダもそうなんです。インドネシアを植民地にして東インド会社というのがありました。オランダ本国でVocという東インド会社のコインを造っていました。そして東南アジアで流通させていました。そういうことで、江戸時代の銅は、世界経済、東アジアの経済を支えていたということが大きいわけであります。

 その鉱山で銅鉱石を掘っているからこそ、そこで働いている人々は、我々がやっている仕事は我々が生きているとう小さなことでなく、大きく社会を支えているので、社会や国を考えるというアイデンティティーを経営者に与えていたと考えます。

 それが明治維新に入っていったときに、別子の鉱山は住友だけでなく国を支える事業であると広瀬をして言わしめた根源になったと思います。
 ですから広瀬は別子の銅で国家経済のことを問いたいとしています。
 彼は言っています「問わんと欲す国家経済のこと。」。
 
 広瀬は別子の銅の事業で国家経済のことを問いたいのだとの思いで近代化を一生懸命やったわけです。西洋に遅れること100年、産業革命が遅れましたが、わずか20、30年で挽回しているわけです。

 別子の山に鉱山鉄道が走り、新居浜の町に製錬所ができ、蒸気機関車が走り、蒸気船が走るわけです。モウモウとした煙が繁栄の象徴だったわけです。ところが、急激な近代化をしたために、煙害というものが出てくるわけです。

 これと対峙したのが、広瀬宰平の甥である伊庭貞剛という人であります。
 私たちは今日的問題で21世紀の問題は環境の時代、環境の問題といわれるのですが、そういう意味においてこの地域、新居浜という地域においては100年前にまさに現在地球が瀕している課題に直面したといえるわけです。
 そのときによくいわれるのですが、公害というものは、損害賠償で解決すればいいという考えがあると思います。

 100年前に広瀬宰平は、せっかく新居浜の町を大きくしたのだからもう損害賠償ですませる手があるよといったが、伊庭は根本的解決無くして公害解決はないのだというので、山にも平野にも影響のない島に移しました。これが四阪島の意義だと私は考えます。

 それが100年前に行われたということです。100年前に考えた人がいたということです。そして、移ったけれど収まらなかったわけです。かえって広がりを見せましたが、最後まで技術の力で解決するという考えですよね。おそらく今日の公害問題も技術の力で解決するしかないものが沢山あると思います。やはり長い年月をかけてやって行くものであるかも知れません。しかし、この町が100年前にやったということです。

 ちょっと長くなりましたが最後に、宮崎駿監督がアニメを沢山作っていますが、自然環境が大きなテーマだと思います。
 「もののけ姫」の中でタタラの話をしています。
 タタラというもので鉄を造るために山が枯れてしまった、死んでしまったということで、その復讐劇の物語です。あれはフィクションですが、私はいつも言うのですが、あれが現実の舞台ならば新居浜の町であると。

 そして、ジョン・ジオノという作家の作品に「木を植えた男」のがあります。羊飼いが種を蒔いて禿山を元の緑にして魚や鳥や動物が帰ってきたという内容です。今から50年前に書かれた小説です。その舞台というか、本当の実話として新居浜の町があることを、わたしはこれから伝えていければいいと思っています。

(水野)
 ありがとうございました。
 続いて夏井さんの方からご発言いただきたいと思います。みなさんご存知のとおり、写真と俳句で綴る別子銅山ということで「森になった街」という本を出されています。

 最近、インターネットで新しい俳句を拝見させていただいたわけですが、大変すばらしい句がありまして私もちょっと気に入っています。
 東平のところで書かれたエッセイと共につけられていますが、「夏草の ぐんぐん朽ちて いく青さ」とか「夏草や 小石のごとき 願いあり」ですが、夏井さんは、いろいろな所でいろいろな人との出会いがあり、また別子の実物のいろいろな遺産をご覧になって歌に思いがよせられているわけですが、その辺の魅力について改めてお聞かせいただきたいと思います。

(夏井)
 私は新居浜という所に全く縁がなかった人間だったわけですが、先ほども紹介していただきました「森になった街」というものを作るということでご縁をいただきました。
 最初にうちの事務所にいただいた話というのは、よく分らない面妖な依頼でした。
 
 産業遺跡というものがあるが、それを紹介しつつ、歴史も語りつつ、資料にもなりつつ、あわよくば観光にも役立てつつ、更に最後の止めが文学の香りを振りかけてくれでした。「そんなバカな。」と思いつつ中身を見せていただいたら、一人ではいけないような山のてっぺんからずうっと下ってきて、上陸禁止の島まで。山の方の坑口というのは、固く閉じてあって全然中に入れるはずもないと。こんなに点在していて、最後に止めが上陸禁止というネタをいただいたのははじめてでした。

 うちの事務所もずいぶんいろいろ話をいただくのですが、これはちょっとした奇跡的なお仕事をしろと神様が言っていただいているのかもしれないと思いました。

 よく分からないが、大変惹かれましたのがそのときの担当者が、「とにかく行ってみてくれ。」と「その現場に立ったとき、私は俳句とは何の縁もない人間だけど、『夏草や つわものどもが 夢の跡』という芭蕉の句を思い出してしまった。
 そういう場所であるからとにかく山に登ってくれ。」とそれだけ投げつけるように言い置いて帰られた方との出会いがすべてでした。

 「だまされたと思ってとにかく行ってみるか。」といういうことで、山の方に取材に回りまして、現場の生の迫力というものに愕然としました。こんなものをこの山中に深く隠して、しかもそれをずうっと温めている新居浜という場所の人たちは、一体どんな人たちなのだろうというようなことまで思いながら、感動につぐ感動の山歩きをさせていただきました。

 広瀬邸の豪華と広瀬さんという方の非常に知的なお人柄もその建物の中から十二分に受け止めました。

 最後の四阪島は、取材とテレビのロケとがいっしょの合わせ技のような形で行かせてもらいました。先の佐々木先生の講演を聞かせていただきながら、みんな同じところに感動するのだと思いながら、とてもなつかしく聞かせていただきました。

 四阪島小学校のジャングルジムが既にジャングルと化しているという光景ですとか、黒板に書かれている文字とか、押しても鳴らないオルガンがそこにあってとか、すべてが圧倒的迫力で、近代化産業遺跡という名前の本当の正体を現場に行って知ったというのが、正直なところです。

 耳で聞いたり、資料で読んだりとするととっても面倒くさくて、ややこしくて、興味のない人間にその資料をボーンと渡されても、資料を読み通して歴史や文化に触れる前に大体の方は挫折するのではないかと思います。

 その現場に行ってからの私たちの事務所のスタッフ全員が、近代化産業遺跡に対してもっと知りたい、もっと自分たちなりに噛み砕いていきたいと、この手ごわい文化を私たちがどう噛み砕いて、どう感動できるのか、それをまた読んでくださる方にどう示せば、それはすごいと感動して私もそこに行ってみようと思ってくださるのかと、いわば難しい翻訳の仕事をどっしりと任されたという思いでした。

 苦労をしましたが、この本を作り上げた後で、どんな言葉がうれしかったかといいますと、新居浜に生まれ育った方からこの本を読んではじめて新居浜という土地を心から愛することができるようになったという風な言い方をしてくださる方が沢山いらっしゃいまして、自分たちの土地に埋もれている、自分たちが知らなかった、見ようともしなかったものを目の前に突きつけられたときに、鳥肌が立つような喜びを感じたという風なことを言っていただきました。

 この本を手にいろいろな所を見て回っていただいた方もいたようです。
 とにかく生の現実以上のものはないということが、この産業遺跡の最も特徴的な魅力ではないかと私は思います。ほとんどの観光地のような所は観光バスで行って、降りてさあっと見て、さあっと帰って行くみたいなものですが、歯ごたえのある見事な遺産にはそれがないと思っております。その辺の詳しい中身は追って話して行きたいと思います。

(水野)
 ありがとうございました。
 佐々木さんの方は、既に分かりやすい言葉でその魅力を話していただいていますが、伊藤玉男さんのことや四阪島の後藤さんのように地元で案内をしていただける人、その人たちの語りの中からよみがえってくるものが、そういうものが非常に大切だということを本にもお書きになっていらっしゃいますが、先ほどの講演にもありましたが、形の中から、風景の中から文化を読み取る、またそういう文化を読み取るのが文化財なのだ、産業遺産なのだというお話には感銘を受けました。

 伊藤玉男のようにお亡くなりになると、その人の命というものの有限性に尽きるのですが、人間が持っている記憶をどう伝えたらいいのかと考えたりいたしましたが、そのあたりはいかがでしょうか。

(佐々木)
 今不意に四阪島の風景をちょっと思い出しました。
 四阪島には大煙突が今でも残っています。
 伊庭貞剛は、亜硫酸ガス被害が少なくなるであろうと思って四阪島へ移転するのですが、結局、煙害はあの島からは長い間消え去らなかったのです。
 
 新居浜も今治も長い間公害で苦しめられました。
 全世界の銅製錬工場は亜硫酸ガスをゼロパーセントにする技術をもっていなかったのです。36年後にゼロパーセントにして以降、大煙突は今でも残っています。

 大煙突の横に観測塔がありまして、いかに亜硫酸ガスの煙害の調査を真剣にしたかという記録があります。観測塔の下に四阪島で煙を吐くのをやめる寸前までの一日ごとの記録のノートがずらっと棚に入ったままです。
 窓からの風に吹かれてノートがパタパタしているのです。案内されてそこに入ったのですが、本当に克明にノートが取られています。煙が朝何時に、どちらの方向に風に吹かれて、風力はいくらで、どちらに行っていると実に克明に記録されています。あの風景、大きな棚なのですが、四阪島では真空パッケージになっているのです。

 産業遺産というのは、人がそれを見て感動するのは、その直前まで人が何かをやっている、うごめいている、あがいている感触がある点だと思います。
 四阪島はだれが行っても感動すると思います。
 近代産業資本を隠していて日本が活力を持った時代です。
 それがいろいろな問題を起して、いろいろな問題にどう闘ったかという記録がそのままに残っています。

 今日、新居浜に6年ぶりに来たのですが、新居浜駅に降りると、プラットホームで看板が目に飛び込んできました。市の駅前区画整理の看板で「もっとすてきなまちを」のキャッチコピーなんですね。そんなこと言うならはっきり言えよ。「こんなまちにしたい」。「もっとすてきなまちを」そんな及び腰じゃ、すてきなまちはできないよ。
 これは唯一の苦情です。

(水野)
 次に後藤さんにお願いしたいと思います。
 実は、私は文化庁で後藤さんといっしょに仕事をしたことがあります。
 近代の建造物をどういう形で残していくのかを若い発想で考えられたのが後藤さんでした。
 平成8年に建造物の登録有形文化財制度をつくられました。
 既に登録数が5000件くらいになるように聞いています。

 新居浜にも旧住友銀行支店、武徳殿があります。私の後藤さんの印象でも、当時の仲間の評判でも研究熱心な人でありました。新居浜市の関係では、広瀬邸の重要文化財指定にも深くかかわってこられた方です。これからの文化財への思いなどをご発言いただければと思います。

(後藤)
 先ほどの高校生の発表にもありましたように、産業遺産ということで産業遺産88ケ所を選んでいましたが、88ケ所を選ぶのに相当苦労したと思います。
 88どころではなくて非常に沢山あって、探せば探すほど面白もの、残していきたいものがあって、実は、人々の生活と密着した文化財という近代の資産というものが「多種多様で大量」と、私たちは言葉でいっています。

 本当にいろいろなものがあります。その最も代表的なものが、産業遺産で、もちろん産業に関わるものだけでなく産業から派生したいろいろなものがあります。
 加えて身の回りに沢山あります。それをどのようにして残すかというときに、ずうっと日本でやってきていたのは、あるものを厳選して選んでそれを宝物として大事にしていました。手もかける代わりに、すこし一般の人々から遠い位置に置き、陳列ケースの中に納めて残していたイメージがあったと思います。

 おそらく多種多様で多量なものを残していこうとすると、そういう残し方ではことが難しいということです。
 それが実は、有形登録制度の導入のきっかけでした。
 有形登録制度とはどんなものかというと、まずは大事なものの名簿を作りましょう。
 大事なものをどうするかというと、まずは大事さをみんなに知ってもらおう。
 
 だから、どうしても文化財というと、今日でいうと産業遺産を88ケ所並べられるとお役所の人とか、企業の人とかは、登録が大事だ大事だと沢山並べられても、残せるかどうか分らないよ、そんな風に並べられても困るよと、どうしても引いちゃう人が多いと思うのですが、まずは、大事なものを並べて、佐々木先生の話にもあったのですが、間引きするものは間引きしてもいいのです。リストに載ったからといって永遠に残すというのではないのです。

 まず大事だということを認識して、大事なものを間引きしたとしてもそれなりの扱いを考えるし、また、間引きする代わりに新しいものを加えるものは加えていきますし、おざなりなものはつくらないと思います。まずリストを作ろうというのが、登録制度の主旨です。

 そういう意味でいうと、新居浜の産業遺産というのは文化財にする、しないの選択の余地はあるのですが、市民にとって大事なものであることを認識することが大事であります。みんながリストを共有することがひとつ大事だと考えます。

 もうひとつの課題として考えておかねばならないことがあります。
 ひとつは、遺跡のようなものになって、先ほども出ていましたが森のようになって自然と一体化して残っている、もう現役の役割を終ってしまって自然と一体化したもの魅力があってどう残していくかということです。
 片方にライブなものがあるわけです。
 四阪島というのは現役で稼動を続けていているわけです。考え様によっては、誇るべきものであるわけですが、住友は企業として新居浜にちゃんといて現役をつづけているわけです。現役を続けていることは実はすごく大事なことです。

 その部分についてもどうゆう風にやっていくかということが、けっこう大事であります。ライブな感覚というのが、先ほどから直前まで生産を続けた魅力があるとかが、ひとつの産業遺産の魅力であります。そこをどういう風に考えるかは、難しいことではありますが、それこそが日本でも新居浜にしかない魅力ではないかと私は思っています。

(水野)
 いろいろな問題を提起していただいていると受け止めていますが、私も遺跡というのはただそのまま保存すればいいものではないと思います。
 佐々木さんも「保続」という思想を提唱されていましたが、単に保存して大切に残すだけでは足らないと思います。

 ものが持っているそのときの人々の繁栄とか、安全とか、祈りとか、日々の生活の中で感じた幸せとかを、そういうものをものの中からどうやって掘り出していくのか。また残っている歌などの中からどう汲み取っていくのかなど、文化的価値を発見していくのはそのことかなと思いました。

 ちょうどマイントピアに満州の方から引き上げてこられて、戦後に別子銅山で働かれた和田さんという人の句碑があるのですが、和田さんの若いときの句を紹介しますと、夜勤から帰ってきてまだ新婚間もない時代の歌ではないかと思いましたが、「夜勤より 戻れば夏の日は高く 遅き朝げに 妻と向かいぬ」という歌です。

 多分奥さんがまだかと待っておられたと思います。そのときの風景を想像しますと、ちゃぶ台というのがあって、簡単な内容の朝食ではなかったかなと想像します。そういう時代の普通の文化を含めてものの中に残していくことが、我々が次の時代に何を伝えるかというときに内容を豊かにしていくのではないかと思います。
 新居浜市内には歌碑とか句碑とかがありますが、思い出とか、何かございますでしょうか。

(末岡)
 別子銅山というのは、文化の香りが高かったと思います。
 普通鉱山町というと暗いイメージが多いのではないかと思います。
 過酷な労働とか、特異な世界でということがあって。
 先ほどご覧いただいた日和佐初太郎さんが写真に撮られた昭和20年代から30年代のあの人々の姿を見て、やはり私は生活と文化の香りがすると思っています。そういう生活があるからこそ、やっぱり歌が詠まれるのだと思います。

 この鉱山に来られた人もいろいろな人が歌を詠んでいます。
 この鉱山に住んで働いた、先ほど紹介された和田佳木子さんなども詠むと、やはり文化がひとつ生まれるひとつの大きな原因として、やはり人間交流がずうっとあるということです。

 先ほども後藤先生がおっしゃっていましたが、会社が元気であることが大切なことなのです。生業、生産が生きていることが大切なことなのです。本当にこれが終ってしまったらそれは廃墟だと思います。日本にはあまた鉱山が北海道から鹿児島までありましたが、ほとんど鉱山町とし元気があって残っている所は少ないと思います。その代償に多分、あの様なテーマパークみたいなものができていったのではないかと思います。それが結局のところ、ほとんどうまく派生していった所はありません。

 それはやはり町が元気だということは、産業と自然と文化の調和がなければ保続もできません。そういう意味において新居浜市には将来性と未来が確保されていると思います。

(水野)
 ありがとうございました。
 末岡さん、特別展が近々にはじまるとのことですが、その中で、大変珍しいものが展示されるようにお聞きしていますが、ご紹介いただけないでしょうか。

(末岡)
 今回、別子銅山300年の文化遺産を新居浜市に集めたいと考えています。
 最も古いものは、元禄4年に開坑したときに山の中でできた銅で、住友家に納めた「床尻銅」というものがございまして、ひとつはこれを展示します。
 
 あとは、事業で儲かったものを社会に還元しなければいけないと、よく言われていますCsrという、企業の社会的責任というものですね。それは何も西洋に言われたから、今の経済のグローバル・スタンダードで言われたからやっているのではなくて、日本的企業の中には、住友だけでなくて、いろいろな企業の中に儲かったら社会に還元しなければならないとの考えは、江戸時代からあるわけです。

 その中のひとつとして、例えば別子の銅で楠木正成の銅像を造って、それを皇居前広場に献納した。その木型ですね。それからあと東京芸術大学の彫刻の先生と話していたときに、東京美術学校の彫刻科はスポンサーとしてどんどん発注してもらったから、楠公銅像、広瀬宰平銅像、川田小一郎銅像とかいろいろなものを発注してもらったから、今の東京芸術大学があるのだとおっしゃっていました。

 やはり文化ですね、もちろん銅山俳句の流れもありまして、そういうものも展覧したいと思っています。

(水野)
 楽しみに見させていただきたいと思います。
 先ほど後藤さんの方から近代のものを残すときに、やはりさまざまな課題があると話していただきましたが、地域にとって大切だと思うものについては、リスト化してその中で本当に欠かせないものとしてしっかり残すものは、保存、保護できる制度に移っていけばいいのではないかという話が出たり、また現に今使っているものないしは、使っているものと同じような場所にあるものを所有者の方とどのような形で折り合いをつけて、うまく残せるのかと。

 近代のものは身近なものだけに、いろいろな課題があると思います。
 市の方からいろいろとお伺いしますと登録制度を活用して、例えばマイントピア地区にある橋とかトンネルとか、また山根グラウンドの石積みの素晴らしさに感動を覚えます。

 ちょうど西中学校の発表にもありましたが、昭和初期に鷲尾勘解治という人が、大山積神社を移すときに勤労奉仕で造ったことが、今では市民の財産になって、少年サッカー大会もできるし、新居浜太鼓祭りの統一かきくらべもできるわけです。

 そういう風に身近に文化財を活かしていく工夫とか、そういうことがこれから市民、行政がその動きを高めていくのが大事だと思います。その話に移らせていただきたいと思います。そのことについて何かいいアイデアとか提案はありませんでしょうか。

(佐々木)
 私の印象ですが、ようするに新居浜と別子銅山ということを考えたら、どうしても話は、銅を産出した土地なってしまいます。
 製錬所はもちろん近代に入って新居浜にあったのですが、江戸期は大阪まで持って行って、そして精錬された銅でつくられた製品は各地に、つまり新居浜以外の所にあるわけですね。

 新居浜の持っていた銅の文化というものをやはり新居浜が集大成すべきだという感じがするわけです。文化として単に鉱山がありました、産出しました、そこで住友の偉い人がいくつか銅山の経営をしましたでは、産出文化だけですよ。産出したもので銅の文化として何を作り出したのか、新居浜にもう一辺呼び返して欲しいと思います。

 例えば住友の場合は、京都に「泉屋博古館」というのがあって中国の青銅器を集めた博物館があります。新居浜は自身の力で銅全体の文化をこの町で集大成するときに、住友を頼らないで、新居浜独自でまずは考えるべきだと思うわけです。

 どうしても住友との長い付き合いが江戸期からあります。住友は偉い企業で、私が感心したのは、別子の銅山を発見して最初に試掘をしだしたときに、最初に新居浜の浜辺からの公道を使ってどんな風に銅を運び出すかと、最短ルートを使わないで、とにかく浜全体を潤すことも考えて、同時に薪の運び出す場所もこの地域全体のことを考えて、試掘の段階からやっているところは、住友家はすごいと私は調べていて思いました。

 つまり、こういうデカイ別子の開発の初期化から植え付けられたら、私は新居浜の人間だとしたら、何かをしようとしたら、それは住友を頼っちゃいますよ。
 住友が何を考えているのかが気になります。これをやっちゃあいけないと思います。

 新居浜独自の文化として銅というものを考え出すときには、一度住友をはずして考えてみる。住友は住友で考えていただいて、自分達でどういう形で銅の文化をもう一辺集大成していくか。住友で働いた人も沢山いるわけですし、退職した人もいるわけで、自分たちの生活の中での銅の文化及びこの土地に根づいた文化を再構成するときに、住友を一辺はずして考える構造をつくらないと、抜本的なことはできないのではないかと思います。

(夏井)
 いいですか。

(水野)
 夏井さんどうぞ。

(夏井)
 全く同感です。私たちは外から来て「すごいね、すごいね。」といって帰っちゃうのですが、市民のみなさんの持っている意識ってものを一回みんなでワーッと盛り上げていくようなものにしなければいけないと思うのですが、パネリストの先生方の話を聞いていまして、この産業遺跡というものを考えるときにライブな感じ、さっきまでそこに暮らしていらっしゃった様なものをそのまま残そうじゃないかというご発言が、それぞれあったと思うのです。

 後藤先生の方から、もう森になっちゃっているような場所もあれば、今ライブで動いている四阪みたいな場所もあるけどというお話もありましたけれど、私は森に帰って行っている街もまさにライブに帰っていっているものだと思います。

 例えば森に帰ろうとしている街ももうちょっとしたら本当に森になっちゃいますよね。元のあの様なものがあったことも全然見られない時代に生まれてくる子たちにが、この先にいるわけですが、私たちは、たまたま森になる過程を自分の目で歩いて見られるという時代にたまたま生まれ合わせてというそういうところから、もう1回この地を愛し直しましょうよ、みたいなムーブメントからもう1回起し直したところの先に、佐々木先生がおっしゃる行動というのが生まれてくるのではないかと思います。

 行動が先に立っちゃうとまたそれだけが浮き上がってしまうだろうと思いますし、何かそういう愛し直し方として、時代の証人として私たちいっしょに歩いてみませんかというところから、やらないといけなけないのではないかという気がするのですが。

(水野)
 実際に文化財に携わった経験がありますと、なかなか難しい問題があるなという気がどうしてもいたします。
 
 私が琵琶湖疎水という日本の近代化にとって大変素晴らしい大土木事業、これは田辺朔郎という若い技師の力によって成し遂げられる、一人がやるわけではないのですが、日本人の力で琵琶湖の水を京都に引いて、それは当時ものを運ぶ、また上水道、工業用水に使うだけじゃなくて、途中で発電ということについてもやはりすべきだとアメリカまで行って勉強して、日本で最初に発電事業を「蹴上」という所でやるのです。

 ところが今でも実は生きているのですね。確かに今は、ものを運ぶということはなくなっています。琵琶湖から水運で大阪までものを運ぶことはなくなっています。京都市民の水を支えているのは琵琶湖疎水だし、また発電もされています。

 ただそれは、本当の近代の史跡として欠かせない、私たちの国の歴史にとって欠かせられないものとしていろいろな方の協議の中で残そうということで、今の使かっていることとうまく両立する形でやれるところはやっていこうと最終的にはなりました。

 南禅寺というお寺がありまして、南禅寺に水楼閣というレンガで疎水の水を北の方に送る所があります。またインクラインといいまして、水運の時代には船を上げ下げするのにインクラインの仕組みで上げ下げしているのですが、今の時代はその用途は無くなっている所です。

 またトンネルを掘るのに縦から掘って横に延ばすという工法は、その時代の新しい技術を日本人が応用していくことだったのですが、そういう部分は山の中にありますので残せるではないかということで残しています。

 なかなか現役のものと両立させるのには難しいことがあります。それをどのようにするかとの地道に話し合いをして行く取り組みが必要かと思います。もうひとつは、市民的な運動ということで、ナショナルトラストとかの運動が全国的にはありますが、そのあたりについては、後藤先生が詳しいので、後藤先生、何かありますでしょうか。

(後藤)
 先ほど佐々木先生が過激な方法で言いましたが、もう少しソフトな言い方でいいますと、企業と市民との新しい関係を築き直すというのですかね。

 もう昔の住友が銅山をやってつくった町というところから脱却して、逆に住友が使わなくなってしまったが、でも大事な産業遺産も現存しているし、片方では工場の中も残っていると。

 もうちょっと見方を変えると、今の日本全国の市町村を見ると、工業団地を一生懸命造成して、企業の誘致に努めています。それは何のためにやっているかというと、企業が来てくれると経済的に潤うということなのです。新居浜は幸いなことに、ずっと住友がいるために、そんなことはしていないとはいいませんが、他の市町村に比べるとずっとそういうことをしなくて、そのために受けた恩恵も逆に市民の側にあります。

 それがある意味でいうと産業遺産だという見方もできます。実はお互い企業と市民が新しい関係を築いて、パートナーシップをつくらないと、逆に例えば住友の社員として新居浜に来た人というのが、先人のつくった遺産を愛してくれて、ボランタリーをしてくれないと、遺産なども、別子の山の道なども人が歩きやすい形にはならないと思います。それは沢山のインフラ整備のための投資をするというよりもむしろ日頃の草刈をするというようなことだと思います。

 きっと海外で成功した産業遺産の町というのは、意外にそういう所が多いのです。実はニュータウンを造って人にそこに入ってきてもらって、そのニュータウンの人たちが一生懸命ニュータウンに昔からある遺産を保存する活動をこなしたりしています。何故そのようになるかというと、ニュータウンで新しく入ってきた人たちは、誇りがないというか、よりどころがないのです。そうすると自分の町を、自分が暮らすようになった町をどのようにして誇りに思っていくかとか、愛していこうかというときに、そこに蓄積された歴史なり文化を折りに触れてリバイバルしていくというか、再生していくことに触れることで自分の町を見直すことができるという活動がすごく大事です。

 実は今日発表していただいた中学生や高校生の活動というのは、そういうことの一環であります。今日の発表の中で「僕の友達も住んでいる人がいます。」というのはすごくいい言葉でした。住友の子もいれば、そうでない子もいるとはっきり分ることなので、そういうことが結構大事ではないかと思います。

(夏井)
 120ヶ所歩きましたという報告があったじゃないですか。
 あの120ヶ所歩くということが、まさに愛する行為の具現化だと思います。
 私、今日の夜にマリンパークで若いDjの人たちとテクノと映像と森になった街の朗読という3つのコラボレーションという不思議な催し物を8時から9時までの時間帯でするのです。

 例えば今まで産業遺跡といって言葉は知ってこの地に育ってきているのだけれど、なんとなく難しいものとして押しあっていた子たちが、そういう場所で音楽に合わせて踊りを踊りながら、朗読を聞きながらちょっと待てよと、ちょっと待てよと自分たちの足元にこういうものがあったということの非常に細かなところが本質なのかもしれないと、後藤先生の話を聞いてちょっと思ったりしたのですが。

(水野)
 そろそろお約束の時間が近づいているのですが、末岡先生何かございませんか。

(末岡)
 産業遺産の問題なのですが、私は先人が残してくれた魂、遺伝子が産業遺産だと考えています。
 
 広瀬宰平はいろいろな銅像を残してくれました。みなさんがご存知なのは皇居前の楠木正成の銅像だと思います。我々経営者も労働者も一緒に国家のために仕事をしましょう。それは国のために役に立つのだということで楠公銅像をしかも別子の銅で造ったわけです。

 惣開の碑というのを彼は惣開に造りまして、その碑文の中に「この地は工業都市の発祥の地」であると謳たっています。近代化産業都市がここから始まるのだよと碑文の中に彼は読み込んでいます。

 住友の社員に対しては銅の橋を造りました。「住友の事業は石橋を渡るようにやって欲しい。」ですからその橋は残っているわけです。100年前に別子の銅で造ったものです。根本はそうなっているのですね。

 伊庭貞剛についていえば、やっぱり我々に残してくれたあの山、山を見て彼はやはり企業というのは儲けるのも目的ではあるが、彼はやはり地域社会とか自然環境とかといっしょにやっていかなければ我々は生きていけないのだというひとつのメッセージですよね。

 四阪島も先ほどもありましたが、メッセージだと思います。
 我々がこういう場面に立ちいったときに「小生は馬鹿な仕事が好きなり。」といっていますが、馬鹿な仕事をしてしまいましたよ、でもそれを見て欲しいと、100年後200年後の評価で見て欲しいということだと思います。

 今後は、誰が悪いとか、いいとかいう問題ではなくていっしょになって地域社会の遺伝子を残していきたい。遺伝子は書いたものでは読まないですよね。言ったってやっぱり、こっちからこっちに逃げてしまいます。でも先人の血と汗のにじんだモニュメントを残すことで我々は、いっしょになって次の世代へそれを伝えていけると思うのです。そんなところに私は産業遺産の意義付け、意味があると思います。

(水野)
 ありがとうございました。
 お約束の時間でございますので、そろそろ閉じさせていただいたと思います。
 やはり文化財というものは先人の生きた証しというものをやはり思い起こさせてくれます。また今日ある我々というものをやはりその時点を再認識させ未来へのエネルギーを汲み取れるものが文化財だと思います。

 それはそれぞれの地域によって違ってくるものですが、新居浜の市民としてここに営々と先人が残したものを、やはり改めて、こういう機会に認識を改めひとつの市民運動として、また文化運動として、また地域づくりとしてこれからも取り組んでいければ素晴らしいものだと感じました。

 本日は本当に各パネリストの先生方のみなさん、貴重な今後の参考になるようなお話をお伺いさせていただきまして、誠にありがとうございました。これを持ちまして本日のパネルディスカッションは閉じさせていただきます。ありがとうございました。

○パネルディスカッション終了