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『むかしばなし』データベースから【寛吾爺さん】を表示 登録件数30中1件
寛吾爺さん川西のおはなし(イラスト:藤田美保)

挿絵
今から130年ほど昔の安政(1854)の頃、庄内の梅が森(庄内1丁目字白木、金子公民館東方)に寛吾爺さんといって、百姓のかたわら、俳句や和歌、即興句を詠むとんちのきく、おもしろい老人が住んでいた。村の人は、寛吾爺さんと呼んでいた。文字にすると寡語(かご)だろうとの説もある。
 寡(くわ)は、饒舌の反対言葉で、すくなくとも唄とか即興句で、その趣や意志を表現したという意味の名前にも受け取れる。
 爺さんの家は、貧しかったので、村の集まりにも呼んでもらえなかった。ある時の集まりのその場で歌を詠めと言われ、鳶亀(建築人夫)の羽織をつかみ、「このわし(鷲)がむんずととび(鳶)をひんづかみ欲のくまたか(熊鷹)又(胯)さけた(酒だ)。」と、皮肉った。 
 ある日、知人を訪ねると、内庭の隅から子ガニが赤いツメを立てて這いだしてきた。「なんぼ寛吾さんでも、あのカニの句は、すぐにはつくれまい。」と、ひやかされた。爺さんは、即座に「にわかに「庭カニいえるかい。」と、やり返した。
 昔は、村の若い衆(若者)は、「めおい」といって、それぞれ食べる材料を持ち寄り、宿を決めて、「ごもくめし」などをつくって食べ、親睦を図っていた。ある日、ごもくめしがちょうど煮えた頃、いいにおいに誘われて通りがかった寛吾さん。うまく頭を使ってごちそうにありつこうと考え、「ついそこで夫婦げんかがあってのうし、婿はんは、物を投げて暴れるもんじゃけん嫁はんは、飯釜の蓋を、こうとって。」と、いいながら、ごちそうにありついた。
 ある年の正月に、村の若い衆が、爺さんをばかにし、からかって、ふんどしを首にかけふざける。爺さんは、少しも怒らず「正月や首にかけたる金袋。」と、やり返した。
 村を歩いていると、ダイコンの双葉が出たところを、ムシに食い荒らされて怒っている百姓を見、「まこと、根も葉もないのうし。」と、なぐさめた。
 或る時、土地の境界争いをしている2人に、「真ん中に出てものをいう境石。」と、みごとに仲裁をした。
 ある農家で、飼いウシがむしろに干していた荒ムギを2枚(約36リットル)も食べ、ウシの胃の中で、ムギがふくらみ、生死の境を苦しみもがいているのを見、「心配は無用じゃ、ウシには胃袋は、たくさんあるぞな(ウシには胃が4つある)、心配ない、生き返る。」と、励まし勇気づけ、長時間胃袋の上を、縄でつくったタワシで、ゴシゴシこすって生きかえらせた。
 ある年、都へ向かう途中、山城の関所にかかったが、通行手形がないので、とおしてくれない。爺さんは、「身は予州(伊予の者よろしうござるかとかける)表は讃州(心は晴れ晴れしとる。)阿州(悪う)ない者、土州(通し)しゃんせ。)と、四国4県、愛媛・香川・徳島・高知を、たくみに歌に詠みこみ、ぶじに、関所をとおしてもらった。(注、出城の関所は徳島にあった。)
 都に入り、芝居見物に行き、おもしろうないので、「ちっともおもしろくないぞ。」と大声でどなった。舞台の役者は、「田舎ザルめが上り来て、何をいうやら語るやら。」と腹をたてた。爺さん「田舎ザルめが上り来て、都のカキを食い荒らし、楽屋のうちは下手(蔕)ばかり。」と、いい返した。
 高木(高木町)へ新築のおこうろく(無償奉仕)に息子を代理に行かせた。一服の休みに、「寛吾さんの息子なら、あれを歌にして見よ。」と、いわれた。見ると、庭のマツの木に、仕事場の菰が、新しいのや古いのが乾かしてある。息子は歌が詠めぬので、寛吾さんに教えてもらって、「マツの木にサギ(新菰)とカラス(古菰)が巣をつくり、白い子も(菰)あり黒い子も(菰)あり。」と詠んだ。
 正月の餅をついたところ、49という縁起のよくない数で、困っていた庄屋に寛吾さんが招ばれ、「これは、めでたいことじゃのうし。」「7つずつ七福神にそなえたら49になろうが(賀)のもし(餅)。」と、詠んで、庄屋さんを喜ばした。
 ある素封家で、旦那がだいじにしていた土瓶を、正月早々に下女が割った。縁起でもないと、早速寛吾さんを呼んで歌を詠んでもらった。「元旦にどん(鈍)と、ひん(貧)とを打ちこわし あとに残るは金のつる(蔓)かな。」と、めでたく納めた。
 我が子の33日に、氏神さんへ祈願の途中で、包みを拾い開いて見ると、袈裟と数珠であった。縁起直しに「今朝(袈裟)拾た数珠の数ほど この吾娘に命拾えと畏み申す。」と詠んだ。数珠の玉の数は、108箇で、子の長寿を願う親心である。
 また、テンカン病の人が、正月早々に門松のそばで倒れているのを、「門松にもたれあわふく(福)の神。」と詠みかえした。
 ある年、伊予小松1萬石の藩邸の、殿様自慢のりっぱなマツが時化(台風)で倒れて、たいへん悲しみしずんでいる折りに、寛吾さんが召し出され庭を拝見、即座に「大マツは倒れても 小マツは栄える。」と1句詠み、さしあげ面目をほどこした。殿様はたいへんに満足され、たくさんのご褒美をくださった。
 また、1人の侍が、女中に誤って泥をかけられ「この女め、人の晴着に泥をかけて、どうしてくれる。」と、女中をとらえて、どなりつけている場に出会った寛吾さんは、さっそくに1句をひねり、「行きかかる来かかる足に泥かかる 足軽おこるお軽こわがる。」と中を取りもって、無事に納めた。
 自分のかわいい娘を、隣の郷村(郷町)に嫁がせ、はなむけのことばに、「これ娘庄内(性無い)者と思うなよ 郷に入れば郷にしたがえ。」と、教えている。
 しかし、失敗もあった。片目同士の夫婦に、「2人して1人の目とはいとしかるらん。」と、からかうと。相手もさる者、「梅が森の巣を追われたるウグイスめ 白木の籠(寛吾)にこもる哀れさ。」と返歌され、さすがの爺さんも1本まいったという。
 また、こんな歌で皮肉られてもいる。「ウグイスなら梅が森にも住もうものが 白木にとまるカワクリ哀れ。」(註、カワクリとは、嫌われ鳥。)
 寛吾爺さんは、小林一茶・種田山頭火のごとく全国を放浪し、晩年、当市庄内町梅が森に住み、ここで歿したといわれている。菩提は、庄内地蔵墓地内にあったが、現在は、無縁塚とのことである。
 (庄内   林金二郎 投稿)
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