昭和52年4月、新居浜市が考古資料として文化財に指定した。 大正15年(1926)3月18日、新居浜市中村2丁目、松本仁平氏の畑から珍しい銭がめが発見された。一家8人が総出でゴボ地こしらえに畑を掘っていた。当時20歳の禎蔵氏のくわの先にかちっと音がした。これが実に珍しい銭がめの口であった。 当然あったはずの「ふた」が、その時には無かったので、雨水も浸入したであろうし土も詰まっていたが、その中には四角い穴のある古銭が青さびで横に1列にびっしり詰まっていた。 かめが大きいのでみんなが協力して掘出し、そこから300メートル近い自宅まで運搬するのがたいへんな苦労であった。 かめの口径42センチ、胴は45センチと63センチのだえん形、高さ58センチ、灰色、林質は硬質。 このニュースは、全国の新聞に報道された。銭がめと古銭は松本家の宝として、松本節太郎氏宅にたいせつに保管されている。 古銭の重量308キログラム(発掘当時311キログラム)枚数約83,300枚、さびてはいるが銭紋が読みとれるものがほとんどであるともいわれている。 当時、村中大きな話題になって見物客も多かった。荷車に積み、村人、子供たちが綱引きして、角野警察署へ運搬した。その様子は、桃太郎が鬼が島から宝物を持ち帰ったような格好であった。その後期限が来ても所有者なしで、そっくり返してもらったのであった。 新居浜文化財保護委員長、合田正良氏が調査して発表された資料によると、これらの古銭は、中国の宋銭で、古い唐時代のものもあり。その中から「和同開珎」が1枚見付かった(あまりにも枚数が多いので全部は調べてない。)。 最も新しいものとしては、中国南宋の成淳元年(1265、鎌倉時代)のものであった。 それ以後のものが見当たらなかったので、おそらくその頃に埋められたと推定される。 当時一文銭にて、米3升と交換することができたので、これだけの銭で、米6,265俵を買うことができた計算になる。現代の米1俵の値段を18,670円と仮定すると、換算して約12億円の価値となる。 これほど巨額の銭をなぜにこの地に埋蔵したか。 当時中村本郷に、役所がおかれてあったことや、現中萩中学校のあたりに古墳が多く集中していることから、この地に住居していた豪族が埋めたのかも知れない。 白山神社は東面しているが、真東でなく約5度南にかたよっている。 銭がめの存在した位置が神社から300メートルで、その方向になっている。 元明天皇の慶雲5年(708)武蔵の国から銅が献上ざれた。 朝廷においては、銅の乏しい時代のこととて、たいへん慶事として、年号を和銅と改め、唐の貨幣制度にならい「開元通宝」を範として「和同開珎」という銭をつくった。 しかしその量は少なかった。 貨幣が流通しはじめてのち、平安、鎌倉時代に至ってさかんに中国の宋銭を輸入してこれが我が国の通用貨幣となった。 松本家で発掘した古銭も、ほとんどが宋銭と唐銭で、古いものとしては、唐武4年(621)にも見られる。 立川増吉氏が最近「伊予の発掘古銭」を自費出版した。 氏は終戦後外地から引揚げ、愛媛県庁に勤務して、県教育委員事務局嘱託社会教育係に勤務した(現在90歳にて健在)。 氏が一度松本家を訪れ、山ほどある前記古銭の中からひと握りを調べた。 個数145個、25種類の中に、開元通宝(621)が31個存在した。 なおそれらの銭文を記録している。 今後、誰かの手によって、発掘古銭全部を詳細に調査研究されることでしょう。 (中村 武田進 記) |