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1 多喜浜塩田について/(3)天然記念物アッケシソウの保存活動

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ページID:0138076 更新日:2024年6月3日更新 印刷用ページを表示する
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議員氏名

田窪秀道

本会議年

令和6年

定例会月

2月

内容

(質問)
○ 次に、天然記念物アッケシソウの保存活動についてお伺いいたします。
 アッケシソウは、明治24年に北海道厚岸町牡蠣島において発見をされ、北大の宮部博士がアッケシソウと命名しました。その後、網走市のモヨロ貝塚の発見者で、当時網走市立博物館の米村館長が、秋には真っ赤に染まるその様がサンゴを思わせることからサンゴソウと呼ぶのがふさわしいと主張、それがきっかけとなりサンゴソウという名称も広く知られるようになりました。海外では、シーアスパラガスとも呼ばれ、食用としての利用もなされております。
 明治末期には、多喜浜での自生が確認され、大正2年に、その事例が紹介されたことで注目をされ、昭和59年に本市の天然記念物に指定をされ、現在に至っております。どのような経路でアッケシソウが多喜浜にやってきたのかは定かではありませんが、塩田に使用されていた砂は、船舶の空荷の際のバランス確保に使われていたようで、北海道の厚岸地域で採取された砂の中にサンゴソウの種が混じって多喜浜にやってきたという説もあるようです。
 また、多喜浜でのアッケシソウの保存に関しては、廃田後の昭和42年、本市東部開発の折、住友化学のボーキサイトかすを土地造成に使用する際、堤防から漏れないようにシートをかぶせるアルバイトに従事をされていた阿島の岡田さんが、アッケシソウをトロ箱に入れ持ち帰ったことに端を発し、以後、公民館や地元の方々の協力もあり、自生地を造成し、現在も保存活動を続けてはおりますが、主になって育てられていた岡田さんがお亡くなりになり、現状では絶滅寸前であるとの情報が入っております。アッケシソウは、海水と淡水が混じる場所を好むのですが、塩分濃度も生育に関係しますので、河口付近ならどこでもよいというわけにはいきません。絶滅阻止をするために、今何が問題なのかと申し上げれば、岡田家の生育場所の借用継続の御了承と生育場所の修復活動並びに日頃の世話や管理などの人的な動員であります。
 そこで質問なのですが、天然記念物を守るために、まずは生育場所として今日まで提供をしていただいた岡田家に対し、場所の提供の御了承をいただくために、公民館サイドと一緒に行政にも同行していただきたいのですが、御所見をお伺いいたします。
 また、生育場所の修繕・修復活動や管理面での人的動員に関し、ぜひとも行政支援を仰ぎたいのですが、御所見をお聞かせ願います。
(企画部文化スポーツ局長答弁)
○企画部文化スポーツ局長(藤田和久)(登壇) 天然記念物アッケシソウの保存活動についてお答えいたします。
 田窪議員さん御案内のとおりアッケシソウは、海水の入り込む海岸の草地に生える植物で、多喜浜のアッケシソウは、日本の南限地であることと、塩田史との関わりが深いことから、昭和59年7月5日に市天然記念物に指定されたものでございます。
 現在の保存活動の状況につきましては、所有者が御逝去され、管理団体が不在となっておりますことから、地元公民館が中心となって新たな管理団体の設置、育成場所の検討を含めアッケシソウの再生を目指しているとお伺いしております。
 今後、管理団体が設置されましたら、他の市指定文化財と同様に、管理団体におきまして、日常的な維持管理等を行っていただく中で、必要に応じて保存活動に関する助言、先進地の紹介、市文化財保護条例等に基づく支援を行ってまいります。
(再質問)
○16番(田窪秀道)(登壇) 我々議員が視察等で他市を訪れる際には、本市の紹介として別子銅山の歴史を持ち出しますが、本市の二大産業として栄えた多喜浜塩田の文化や歴史には、あまり触れられてはおりません。もっと胸を張って本市の歴史文化を他市へ伝えるためには、塩田資料のさらなる解析と利活用、同一場所への資料展示と場所の確保、歴史文化の継承のためのさらなる人的支援が必要でありますので、今後とも御支援を賜りますようお願いをいたしまして、次の質問に入ります。