元禄3年(1690)に別子銅山の実地検分を行い、難路踏査の末、露頭を発見して試掘し、有望な鉱床を確認して大喜びしたのが、このあたりで、元禄4年(1691)に最初に開さくした坑口をこのことにちなみ、歓喜坑と命名されました。
その隣にあるのが、歓喜坑に次ぐ旧坑の歓東坑です。江戸時代の開坑当時には、周辺一帯が屋根に覆われており、鉱石の計量所、勘場、風呂場などがあり、銅山の本拠地である別子本鋪が形成されていました。
現在も、この両坑は、貴重な産業遺産として保存されています。
地図
地図が表示されないときは
閲覧数が多い場合、Googleの利用制限により、地図が正常に表示されないことがございます。
そのため、時間を空けてから再度アクセスをお試しいただくか、お急ぎの方は大変恐れ入りますが、
地図サイトや地図アプリにて検索いただきますようお願いいたします。