銅婚の里ツアー

銅婚の里ツアー体験記

10年後、20年後も家族で記念日を重ねたい

鬼木さんご家族(福岡県)

当時の人々の息づかいが感じられる東平地区

当初、「銅山」と聞いてどこか暗い印象を抱いていたという鬼木さん。しかし、マイントピア別子東平ゾーンを訪れガイドさんの話を聞き、先入観が覆ったそうです。

当時、東平地区では標高750mの山岳地帯に5,000人以上の人々が暮らしていました。日本初の山岳鉱山鉄道が走り、新居浜市中心部への交通の便が確保され、小・中学校や保育園では子供たちの笑い声がこだまし、郵便局、生協と、そこには麓と変わらない日常がありました。

2,000人を収容できる娯楽場では、映画や劇の上演があると地域の人々が集まり、社宅が空っぽになってしまうこともあったとか。銅山閉鎖後は、植林が進み山中にひっそりと遺構を残すのみとなりましたが、ガイドさんが当時の様子を語ると、東平で生きた人々の息づかいが伝わるようだったと鬼木さんは言います。

新居浜市と銅の深い関係を知る

鬼木さんは、今回のツアーに参加するまで新居浜市の存在を知らず、新居浜市を「銅婚の里」と呼ぶのはなぜだろうと思いつつ参加したそうです。しかし旅のなかで、東平地区をはじめ、新居浜市と別子銅山の深い関係を知り、その疑問が解けたそうです。

家族の絆を深めるためにこの小旅行が良い機会となったと鬼木さん。初めて訪れた場所で、家族そろって記念の手形を作り、未来の家族に向けて手紙を書くといった記念イベントを通じて、「いつまでも家族全員の心に残る旅行になりました」と笑顔。「これから10年、20年と家族で記念日を重ねたい」と今後も仲の良い家族であることを約束してくれました。